「自分以外はバカ」の時代

「自分以外はバカ」の時代 < 「永久保存版」のホームページ < * ノーマル * 経由。ここ何日か考えていたことにかぶったので、読んで考えたことを併せて書いてみようと思った。できればリンク先も読んで欲しい。


「自分以外はバカ」的な状況を、ぼくもいたましく思う。それを越えて行くためのイメージが必要だと思っている。期待しているものについて書いてみる。
人の失態を見たくないという心性があるでしょう。人間の徳のひとつにまで高められている。あえて見ないふりをするのは、共感を拒否しているのではなくて、相手を尊重する気持ちが根底にある。儒学でも世間様でもいいのだけれど、一人の人間よりも偉大なものが皆に共有されていたころには、失態とは道を外れることであって、エゴとエゴとの衝突はその道を介して間接的にされてきた。
でも、偉大なものは消えてしまった。罪を憎んで人を憎まずと言えるのは、偉大なものの偉大さと、あらゆる人間に及ぼす影響力の普遍性を信じている場合に限られる。だから、それが消えてしまったいま、ぼくたちは見ないふりをすることで、どんどん孤独になっていく。自分しか信じるものはないのに、自分なんて頼りないものだとあらかじめ知っている。
普遍的な共感を媒介するものは、明示的であってはならない。でも新しく作られるものは、どうしてもまわりから浮いて目立つ。その矛盾がむずかしい。人間の優しさや、深い感動や、涙をさそうストーリーが、広く共感を媒介するものとして新しく世に出て、あっという間に消費される。
代わって『空気』だとか『場の雰囲気』だとか呼ばれるものが、その非明示性によって台頭してくる。興味深いのは、それが有難いものとしてではなく、壊した人をつるしあげにしたり、自分で壊したくないという負の思いによって強く意識されていることだ。なぜかと言えば、空気感の見事さは個人のスキルに依存しているうえに、見事だと認めることも個人の裁量如何によっているからだ。これでは、中流意識まるだしの排他的な仲良しサークルになってしまう。明示的に過ぎる。
ここで、ふたつの方向性が見えてくる。孤独でいないために、なにができるのか。排他的なサークルに身を埋めるのか。それとも道は長いと知りながらより普遍的な何かを探すのか。


限界。続く。