生来の性に自分を重ねていくのは難しい。トランスセクシャルには「社会の目と本来の自分」のような深い葛藤があるだろうけれど、ノーマルだと自覚している者にも、表面には現れにくい葛藤、あるいは模索があるように思う。
二十代後半で、彼氏彼女のいない人の話を聞いた。ひと月の間に二度の機会があったので印象に残った。理想の相手を求めるばかりで心が凝り固まっているかというと、そんなことはない。だいたいにおいて迷っている。話は抽象的になるから、盛り上がりはしないんだけれども、興味深く聞いた。
異性のなかにある理想の異性像に自分を重ねる生き方がある。今ではアホにしか見えないけれど、媚びる女、マッチョな男などは、理想(の自分)と現実(の自分)のギャップにだけ心を割いておればよかった。松浦亜弥のようなフィクションとして、それは生きている。
彼女とつきあい始めたころ、自分が男として未熟であることよりも、その鑑識眼であるところの女性的視点が一面的だと気づいたことが、ぼくにとって大きかった。ぼくはそれを意識的に放棄した。ぼくの鑑識眼松浦亜弥ほどには強くなかったというわけだ。
モテる異性にあえて近づきたいと思わない、というような心性をあたりまえのように聞いた。信用できない気がするということだった。聞き流せなかったけれど、なにがひっかかるのかわからなかった。


以下、モテる異性に厳しいのは、理想の異性像に近づくあまり、精神が異性化してるのではないか、と結論付けた話。かきかけ。