一般的な用途を外れた使い方をされていながら、それがかえって豊かな生活を想像させるもの。そういうものが好きだ。
ファブリーズというやつは、使い方を極度に限定するだけでなくて、生活も精神も感覚も、鈍く貧しくしていくんだ。だから嫌いだ。

フル・フロンタルスティーブン・ソダーバーグ
とてもおもしろかった。
劇中劇の設定がどこへも着地していないのが新しかった。
わけわかんないまま、「それ新しいね」と言いたい。みうらじゅんならそう言うね。
これは、最後にはみんなが自分へ帰っていく話だ。
それは死でもいいし、夫婦のとりあえずの和解でもいいし、うそがばれなかったりすることでもいいし、救いの手をはねのける人のトラウマが明るみになることでもいい。死は祝福なんだよ。あんなに恥ずかしい死に方でも。
ショート・カッツに似ていたけど、こちらは個というものがどこかへうっちゃられて、さざ波に翻弄される群像が描かれていた。人は自分の力で人生を切り開いていこうとするけど、精々起こせるのはさざ波程度で、それさえ人の心を動かすには十分だ。なんだかわかんないけど、天変地異で自分の卑小さを知らしめられるよりも、情けは人のためならず、あるいはちょっとした他人の言葉がケチのつき始め、みたいなことがリアルでおもしろかった。
ホテルっておもしろい場所だなと改めて思った。別々に描かれていた群像が、ホテルと小演劇の初舞台にそれぞれ収斂していくのが象徴的でおもしろい。ショートカッツは地震と、奇病の蔓延というSF的装置がそれだった。こちらはサロンとか、別荘地の殺人とかを思い出す。
村上春樹がホテルの精を書いていたけど、こっちのマッサージ師も良かった。

昨日食べたのは、きんぴらゴボウと、ちんげんさいとにんじんとしいたけの炒め物と、いわしの煮付け(これは温めただけ)
ご飯も美味しかった。二回目までは軽くまぜるだけで水を換えて、あとでちゃんと研いだら美味しかった。

キムチ鍋は、具とスープを入れる前に、土鍋で肉とキムチを炒めると美味しい。
試してガッテンで言ってた。
先週の金曜日に始めて、具を足しつつさっきの雑炊でようやくシメた。
豚肉で始めて、タラとハマグリ入れて、うどん入れて、楽しかったなあ。
いろいろあったよなあ。っていう話。

彼女のお父さんはアンデルセンに似てる。
日本人離れしているし、アンデルセンが言われていたように、オランウータンにも似ているかも知れない。
彼女の母方のおじいさんは手塚治虫に似てる。一枚の写真でしか知らない。
ふたりとも専門的な、知的な仕事をしている。おじいさんは故人なので、「していた」。
ぼくは芥川龍之介に似てると言われたときがいちばんうれしかった。
彼女は新沼謙治に似てると言った。


子供向けにかかれたアンデルセンの伝記と、荒俣宏の訳で最近になって編まれた童話集を読んだ。
「絵のない絵本」をいま読んでる。アンデルセンを楽しめるには、ぼくには少し遠回りが必要だったみたい。
花田清輝「復興期の精神」にアンデルセンについて書かれた章があって、それがずいぶん役に立った。


ネットを通して自分のパソコン上で知ることは、まがい物のような気がしていたんだけど、
情報を得るための手段として比重が高まってくると、そういう気持ちは薄れてくる。
手段としてお手軽に過ぎることは、気を付けなきゃいけないと思ってる。


同世代が金と発言力をもつようになって、同時に支配的な情報も、伝え方も、耳に優しくなってきた。
良くわかることしか耳に届いてこない。それがむかつく。
古いアニメや歌謡曲がすごかったことも、古民家再生も、農業が尊いという考え方も、むかつく。
社会参画も、ボランティアも、インフォームドコンセントもむかつく。
孤独で、さみしい世界に栄養を送り続ける細い管に見える。そんな物なくたって生きていける。
そういう気持ちのまま、世界に向かって「こんにちは」と言いたい。もっか奮闘中。


ジネディーヌ・ジダン和田一浩(西武)はハゲなのにすごいスポーツ選手の代表的な二人なのね。
1972年に四日違いで産まれている。ぼくはその四日のあいだに産まれてるんだけど、
オセロ式にハゲるひとは世界に何人くらいいるのか概算してみたんだけど、
100万人という結果になって、どうともイメージできなかったので残念だった。
ご近所レベルの人数だったらよかった。


松谷みよ子「屋根裏部屋の秘密」おじいさんとおばあさんの姉弟で「信濃の国」歌うところがよかった。松谷みよ子は「いい子」が日本にも実在することを信じ切ってる。そこがいい。
ドストエフスキー罪と罰」兄と妹の対決シーンが良かった。
橋本治「'90」洗濯が精神衛生に良いのは、ぼくもそう思う。高層ビルにはためけ白いTシャツ。

新「親孝行」術
ISBN:4796629165
とっても良かった。ハウツー本として読むと、章が進むほどに「ダメだよ、ついていけないよ」って感じだったけど、その感情が切実だっただけに、プレイとしての読書が際だって、良かった。
心に根ざさない実践としての親孝行に、あとから心がついてくるという考え方は、ぼくのなかでは井上ひさしがたびたび描いた、演劇を通して役者に返ってくるある心の動き、とつながる。(もともとはシェイクスピアのアイデアだろうけど、ぼくは良く知らない。)
心がついてくると言ったその証拠に、母親のルーツを探す旅に同行して、探し当てて泣くほど心を動かされたことが、あとがきになって初めて語られる。ロードムービーのエンディングの王道を行くような、そんな印象的なシーン。